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散歩の歌

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2011年3月10日

3月11日ではありません、3月10日です。

父の命日。
昨年の3月10日に父は病院で息を引きとりました。
そのことを知ったのは、1ヵ月ちょっと経った、4月のことでした。

ええ、両親は離婚してもう10年以上たっており、私は母親の籍になったので、亡くなったことを知らなかったのです。

たまたま、父の居場所を確認したくなり、役所に問い合わせたところ、亡くなったことを知りました。
役所の方は、電話口で、私が本当の娘かどうかもわからないのに、細やかに状況を教えてくれました。

軽く認知症を患っていた父、ほか合併症なども抱えており最終的には肺炎で亡くなりました。70歳でした。


縁を切っている状態だったので、悲しみはありませんでしたが心に寂しさというか罪悪感が残りました。

物心ついた頃から、我が家は両親のケンカが絶えませんでした。母は私を産んだときに離婚を考えていたそうです。でも、子供がいるから離婚できないと小さな頃からよく聞かされてました。
父親は毎日昼から酒を飲み、夕食時に帰ってきては子供に絡みました。「お前はダメなやつだ」、「もう、この家はおしまいだ」。幼い子にはずいぶん、不安にさせる言葉でした。
生活費も入れず、母はずいぶん苦労していました。

私が4歳くらいの頃のこと、父と二人で留守番していたとき、父がお皿を投げ飛ばしたこともあります。玄関のガラス窓が粉々に砕けました。誰も助けてくれる人はいません、怖かった私は台所のお勝手口に隠れてひたすら母の帰りを待ちました。
まもなく母が帰ってきて、私はかけよろうとすると、「なんなのこのありさまは!!!」と母の怒鳴り声。そして夫婦げんかが始まり、私はただ、ただ、自分の身を守るのが精一杯ですみっこでけんかが終わるまで隠れてるだけ。
中学に入った頃は、私の誕生日近くに飲酒運転で人身事故を起こしたこともあります。しかも、このときは浮気相手の家に来るまで向かっていたようです。母は、泣きながら私のことを「かわいそうだ・・と言ってましたが、何がかわいそうなのか理解できませんでした。
その頃はもう私には家庭のことで悲しいと思う感情も、涙も出てこない、状態でした。

高校や大学受験のときは、毎晩酔っ払って帰ってきては「お前は絶対受からない、無駄だやめちまえ!」みたいなことを言われつづけました。相当なストレスでした。

いつも、父がいつ帰ってくるか怯えてました。自転車で戻ってきた音がすると、すぐにテレビを消して自分の部屋へ逃げました。
私は女性なので、それなりに嫌なこともいろいろありました。自分の部屋につっかえ棒をして扉を開かないようにしてました。

母が父と離婚調停を始めたのは私が社会人になってからです。私が社会人になるのを待っていたのです。

当時はなかなか離婚が難しい時代で、浮気や父の行動など証拠がないからダメだといわれました。とうとう離婚裁判になっても、なかなか離婚できませんでした。証拠がないためです。
すでに母が離婚を申し出て5年の月日が流れていました。

家族も限界でした。
とうとう、私は決意したのです。
それは、小学6年生のときから実に15年間も書き続けていた日記から、時々書いていた父のこと家のことに付箋をし、証拠として弁護士に提出したのです。

裁判は私の日記が証拠となって、離婚判決がでました。このとき、父の顔は青ざめていたそうです。

ちょっと罪悪感がありました。
娘に裏切られる気持ちってどんなだったのだろうと・・・・。
確かに父親にはずいぶん嫌な思いをしましたが、幼い頃にかわいがってくれてた想い出もあります。
Image0026.jpg

できれば夫婦二人で解決してほしかった。でも、こうするしかなかった。母も年とってきたし、このまま時間が流れるのがつらかったのです
小さな頃から母親にとっては私が唯一の頼りでした。「あなただけが頼りだから」といわれて育ってきました。
父には嫌な思いも怖い思いもしたけど、大人になってからは母の味方をして一緒になって父親を非難する自分のこともちょっといやでした。でも、味方するしかなかったのです。

その後、父と顔を合わせることは一度もありませんでした。トラウマ的なものもあります。怖かったのです。
同時に会わないことに罪悪感もありました。

私が大きな病気をして働けなくなり、しかし母親の家に戻ることは許されず、経済的支援もないとき、父は少しだけどお金を出してくれました。
そのとき、父は生活保護を受けていることを母から聞いていました。
とても、申し訳ない思いでした。
母からは、「今まで助けてくれなかったんだから、親として当たり前だ!」といわれました。「ありがとう」がいえませんでした。

電話で少しだけ話しをしたことがあります。父は穏やかな口調でした。
あんな父親でも娘を心配してるんだなと思いました。

離婚して7年後、成年後見制度の通知が私のとこにきました。父は軽い認知症を患ってました。
実は弟が父の籍にいて、本当は弟が受けるべき話なのに疑問に思うと、弟が父のことは一切関与したくないと拒否をしたとのこと。

色々悩みましたが、私も断りました。酷い娘だな、と自分でも思いました。
でも、やはり父親の顔をみるのも怖いし・・・・中途半端に関わりを持つことの方が残酷だと思ったのです。
ここで受けたら、私はこう思うでしょう。「結局、家族は私を頼りにしてしまうんだ」と。
父に対する憎しみも出るかもしれません。そんなネガティヴな気持ちを持ってかかわりたくなかったのです。

軽い認知症を患い、生活保護を受けながらひとりで暮らす父を想像すると、胸が痛みました。
なんて寂しい人生なんだろう・・・・。
けど、もうだめだったんです。精神的に私も・・・・。断ることが精一杯の愛情だったのです。

そんな罪悪感を片隅に持ったまま、父は亡くなりました。



震災の起こる前日、看護を任務とする医療スタッフに見守られ、適切な処置を受けて亡くなりました。
遺骨は父の兄弟が名古屋に持っていきました。
何もトラブルも起きず、一切私達家族に迷惑をかけずに逝きました。
最期の最期に、誰にも迷惑をかけずに逝きました。
震災前の、停電も混乱もおきる前に逝きました。

そして東京も震災の影響を受け、やや落ち着いてきた1ヵ月後にたまたま、役所に電話して知ることができたのです。

いや、父が教えてくれたのでしょう。
普通なら弟のとこに連絡がいくはずですが、母も弟も私を通じて父の死を知りました。役所に電話しなかったら誰も知りませんでした。

死亡した日は3月10日だけど、父の魂は私たちにお別れを告げた4月、やっと逝けたのだなと思いました。

Image0027.jpg

その後、役所から、ほんとに僅かですが父のお金があるので受け取ってくださいと役所から連絡がありました。
通帳と父の印鑑を渡されました。

通帳には鉛筆で父の書いたメモがありました。お金もないし、どうしたらいいだろうというようなメモでした。
友人にお金を借りている形跡もありました。
とても悲しくなって、あの時はわんわん泣きました。


この場を借りて・・・・・

お父さん、
裁判に日記を出して、裏切ってしまい、ごめんなさい。わざわざ裏切る行為までしなくてもよいのにと思ったけど、終着点の見えない5年はつらく、苦しく、ああするしかなかったのです。

顔をみせることなくてごめんなさい。怖かったのです。笑顔で会える自信は皆無でした。今でも、無理だと思います。

生活保護を受けているのに、助けてもらってごめんなさい。本当はそうしたくなかったです。でも、母が「父親からもらいなさい!こんなときくらい助けてもらいなさい!」と言うので、それが正しい行為だと思い込んでいたとこもありました。
そして、ありがとう。初めてお父さんに助けてもらいました。

成年後見制度を断ってごめんなさい。認知症のことも薬を飲んでいるか、進行してないか心配でした。認知症の初期は、自分の異変に恐怖を覚えることも知っていたので、家族にも裏切られ、相当不安だったのではないかとも思いました。
でも、私の決断は正しかったと思います。ごめんなさい。

許してください。


※こんなことをブログに公表することは非難の声もあると思いますが・・・。うまくいえないのですが、胸に秘めておくだけにしたくなかったのです。
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  1. 2012/03/11(日) 23:51:22|
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住まい:東京都多摩方面、生まれも育ちもこの辺り。
趣味:散歩、旅行、自然と戯れること、猫と遊ぶこと、音楽にひたること、そして飲むこと!

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